Lucas KBYSさんへ~「ギークな意識」と「ポリティクスを楽しむ意識」についての補足
- 2014/07/30
- 02:08
追記(2014.8.13(Wed))
本記事は、togetter - ゲームの内外を分ける~「ポリティクスを楽しむ意識」って必要なの?における返答として書いたものです。
最初に。
結論としては、反対意見だったと思うのですが、しかし、真剣に紳士的に私の記事について語っていただき、嬉しかったです。本当にありがとうございました。
ただ、件のご意見について、ある程度、私の勉強不足と表現の不適切さが生んでしまった誤解があるように思いましたので、補足説明させて頂きたいと思います。
まず、実際のところ、Lucas KBYSさんが考える望ましいゲームプレイ(もしくは、より善くゲームを楽しむためにプレイヤーがとるべき、ゲームに対する態度)と、私が考えているそれとは、多分そんなに変わらないのではないかと思います。私も、善いゲームがそのポテンシャルを最も善く発揮するために持ち込まれることが許されるポリティクスは、もちろん、極めて限定されるべきものと思います。問題となっている私の元記事 「ギークな意識」と「ポリティクスを楽しむ意識」 の中でも、「(ポリティクスを楽しむこととは)…ゲーム終了後の人間関係を盾にして相手のプレイを制限したりするようなことを楽しむ意識を持とう、ということである。が、そういう風に言うと、『え?それはゲームをむしろつまらなくするよね?』と反発したくはならないだろうか。矛盾する話ではあるが、私もそのとおりだ(=ゲームをつまらなくする)と思う。」と記述していますし、その後の記事 私的思索の個人メモ のD-4やD-5辺りを読んでいただければ、少なくとも無限定にポリティクスをゲームに持ち込もう(そうすることによってより善くゲームが楽しめる)と主張したいのではない、というところはご理解いただけるかと思います。まあ、そもそも、無限定にポリティクスを持ち込みたがっていると読まれても仕方ないような、舌足らずな記述をしていた私が悪いのですけれど…。ごめんなさい。
ともかく、私も基本的に、ゲームをより善く楽しむために必要なのはギークな意識の方だと確信します。Lucas KBYSさんがおっしゃっているように、無限定に持ち込まれ、徹底されたポリティクスを楽しむ意識がもたらすのは、ゲームではありませんから(少なくとも、個別具体的な各タイトルのゲームを楽しんでいるのではなくなってしまいますよね)。
ただ、誤解させてしまっていたのではないかと思うのは、ギークな意識とポリティクスを楽しむ意識とは、必ずしも反対概念では無い、という点です。つまり、私が 「ギークな意識」と「ポリティクスを楽しむ意識」 の中で「両方を持たなければ、あるゲームを、ある人達と楽しむことに、本当に喜びを見出すことはあり得ない。」と語ったその両方の意識を併せ持つ状態とは、ギークな立場とポリティクスを楽しむ立場という両極端な在り方の中庸にあるのではない、ということですね。したがって、完全にギークであり、かつ、ある限定された範囲でのポリティクスを楽しむことができる、というようなプレイヤーの在り方は、理想論などではなく、実際に存在するものと私は思うのです。
例えば、「得意な戦法」という概念が存在することは、その一例かと思います。得意な戦法というのは、そのプレイヤーが構築したゲームのモデル(=「プレイヤーが理解したそのゲームの構造を内的に再構築したもので、プレイヤーの行為に指針を与えるもの」と理解しましたがよろしかったでしょうか?)が生み出すものです。そしてそれは、ある特定の事態を経由して(それを中間目標にして)最終目標に到達することに最適化(極適化、というのが正しいでしょうか)された思考様式と見做すことが出来るでしょう。しかしそもそも、本当にゲームの形式的なシステムの内側でのみ思考するのであれば、最適解となる一手が目指すべき中間目標は、極めて小さな状況の差によって全然違ったものになってくるはずです。他方、「得意な戦法」に乗っ取ったゲームプレイは、ある程度包括的に、ある特定のゲーム内の事態の達成を中間目標として引き受けるものであって、それは、最終目標の達成に際してある特定の事態を経由することに、ゲームの純粋な論理構造が規定するところの勝利に対する合理性とは異なった、何らかの意味や価値を見出しているからだ、と言えると思うのです。
十分複雑なゲームを、プレイヤー各人がモデル化し、それによってゲームをプレイするならば、そこでは、モデルとモデルの相互作用が創発されます。そしてモデルというものが、ゲームの純粋な論理構造とは無関係に見出された部分を持つ、プレイヤーによる一つ一つの行為の背景となるものであるならば、それはプレイヤーの性格の一表現であるはずです。だとすれば、そのモデルとモデルの相互作用とは、(もちろん極めてその範囲を限定されたものではあるけれども)一種のポリティクスである、とは考えられないでしょうか。したがって、オラクルたりえない人間が、その能力の限界まで徹底してギークでありつつ(つまり、人間には不能な決定木の書き下し分析にはよらずとも、そのゲーム構造のモデル分析により最適解を探索する態度を取りながら)、かつ、そこで創発するポリティクスを受容しよう、という態度を持ったプレイヤーとして存在することは、実際にあり得る(というかこのレベルでは、無自覚にではあっても実際に多くの人がそのようである)と思うのです。
さて、だんだんと、明らかになってきたかと思いますが。Lucas KBYSさんと私が異なる立場にあるだろうと思うのは、私が、根本的なところで、ゲームの外側の事象は、ゲームから完全に排除することは出来ず、むしろ、できる限り純粋な(形式的なシステムの内側のみで完結する)ゲームであろうとしても、それでもなお外側の事象が入り込んでくることにこそ、ゲームの楽しみの本質的な部分が(少なくともその一側面が)あるものと考えている点です。したがって、「(両方の意識がなければ)本当に喜びを見出すことはあり得ない」という私の主張については、この立場の違いが生んでいるところであると考えられますので、どうしてもフォロー出来ませんでした。自覚的ではないかもしれないけれども、徹底してギークであろうとしている人でもやはり、どこかでポリティクスを楽しめているのではないか、と私は思うのですね。この立場について、多分、本記事の議論だけでは、Lucas KBYSさんは納得されないと思います。それは、私の立場が端的に間違っているからかもしれませんし、もしくは、Lucas KBYSさんを納得させられるだけ私の思索も私の言葉も洗練されていないからかもしれません。納得させられない主張は、正しくない主張である、という考え方も当然あるかとは思いますが、どうか今の時点では、「君はこう考えるのね。自分は違うけれど。」と、寛容な目で見ていただきたく存じます。この先私が上記の立場を改めることがあれば、その際には、はっきりとこのブログ等の場を使ってその結論に至った議論を語らせて頂きたいと思いますし、また逆に、今の私の立場についてさらに確信を得、新たな視点と説得力のある言葉でそれを説明出来るようになったならば、改めてその議論を語らせていただくつもりです。もちろん、ご質問はいつでも大歓迎ですのでどんどんツイートでもコメントでも投げていただければ私としても嬉しく思いますが、まだ、どちらの立場が正しいか、という客観的な判断にまで到達できる状況ではないと私は思っています。ですから、何かまた新しい論拠が出てくるまで、お互いにお互いの立場を大事にして思索を深め、その先でまた議論出来ればなあ、と。一方的な主張で終わって申し訳ないですが…。はい。
最後に。
「モデル」という概念の呈示や、ゲームの複雑さがキングメイカー問題を終盤に追い込むこと、そしてまた、プレイヤーによる認識の多様性への気付きに、喜びや楽しみが見出されることなど、とても興味深くLucas KBYSさんの議論を拝見させていただきました。これからも楽しみにしております。
それでは以上、乱文な上に長文で失礼致しました。
追記:
私が上記記事で「ゲームの内側/外側」という言葉で語っているのは、「魔法円の内側/外側」ではなく、「ゲームの形式的システムの内側/外側」のことでした。また誤解させそうになってしまってましたら、ごめんなさい。
本記事は、togetter - ゲームの内外を分ける~「ポリティクスを楽しむ意識」って必要なの?における返答として書いたものです。
最初に。
結論としては、反対意見だったと思うのですが、しかし、真剣に紳士的に私の記事について語っていただき、嬉しかったです。本当にありがとうございました。
ただ、件のご意見について、ある程度、私の勉強不足と表現の不適切さが生んでしまった誤解があるように思いましたので、補足説明させて頂きたいと思います。
まず、実際のところ、Lucas KBYSさんが考える望ましいゲームプレイ(もしくは、より善くゲームを楽しむためにプレイヤーがとるべき、ゲームに対する態度)と、私が考えているそれとは、多分そんなに変わらないのではないかと思います。私も、善いゲームがそのポテンシャルを最も善く発揮するために持ち込まれることが許されるポリティクスは、もちろん、極めて限定されるべきものと思います。問題となっている私の元記事 「ギークな意識」と「ポリティクスを楽しむ意識」 の中でも、「(ポリティクスを楽しむこととは)…ゲーム終了後の人間関係を盾にして相手のプレイを制限したりするようなことを楽しむ意識を持とう、ということである。が、そういう風に言うと、『え?それはゲームをむしろつまらなくするよね?』と反発したくはならないだろうか。矛盾する話ではあるが、私もそのとおりだ(=ゲームをつまらなくする)と思う。」と記述していますし、その後の記事 私的思索の個人メモ のD-4やD-5辺りを読んでいただければ、少なくとも無限定にポリティクスをゲームに持ち込もう(そうすることによってより善くゲームが楽しめる)と主張したいのではない、というところはご理解いただけるかと思います。まあ、そもそも、無限定にポリティクスを持ち込みたがっていると読まれても仕方ないような、舌足らずな記述をしていた私が悪いのですけれど…。ごめんなさい。
ともかく、私も基本的に、ゲームをより善く楽しむために必要なのはギークな意識の方だと確信します。Lucas KBYSさんがおっしゃっているように、無限定に持ち込まれ、徹底されたポリティクスを楽しむ意識がもたらすのは、ゲームではありませんから(少なくとも、個別具体的な各タイトルのゲームを楽しんでいるのではなくなってしまいますよね)。
ただ、誤解させてしまっていたのではないかと思うのは、ギークな意識とポリティクスを楽しむ意識とは、必ずしも反対概念では無い、という点です。つまり、私が 「ギークな意識」と「ポリティクスを楽しむ意識」 の中で「両方を持たなければ、あるゲームを、ある人達と楽しむことに、本当に喜びを見出すことはあり得ない。」と語ったその両方の意識を併せ持つ状態とは、ギークな立場とポリティクスを楽しむ立場という両極端な在り方の中庸にあるのではない、ということですね。したがって、完全にギークであり、かつ、ある限定された範囲でのポリティクスを楽しむことができる、というようなプレイヤーの在り方は、理想論などではなく、実際に存在するものと私は思うのです。
例えば、「得意な戦法」という概念が存在することは、その一例かと思います。得意な戦法というのは、そのプレイヤーが構築したゲームのモデル(=「プレイヤーが理解したそのゲームの構造を内的に再構築したもので、プレイヤーの行為に指針を与えるもの」と理解しましたがよろしかったでしょうか?)が生み出すものです。そしてそれは、ある特定の事態を経由して(それを中間目標にして)最終目標に到達することに最適化(極適化、というのが正しいでしょうか)された思考様式と見做すことが出来るでしょう。しかしそもそも、本当にゲームの形式的なシステムの内側でのみ思考するのであれば、最適解となる一手が目指すべき中間目標は、極めて小さな状況の差によって全然違ったものになってくるはずです。他方、「得意な戦法」に乗っ取ったゲームプレイは、ある程度包括的に、ある特定のゲーム内の事態の達成を中間目標として引き受けるものであって、それは、最終目標の達成に際してある特定の事態を経由することに、ゲームの純粋な論理構造が規定するところの勝利に対する合理性とは異なった、何らかの意味や価値を見出しているからだ、と言えると思うのです。
十分複雑なゲームを、プレイヤー各人がモデル化し、それによってゲームをプレイするならば、そこでは、モデルとモデルの相互作用が創発されます。そしてモデルというものが、ゲームの純粋な論理構造とは無関係に見出された部分を持つ、プレイヤーによる一つ一つの行為の背景となるものであるならば、それはプレイヤーの性格の一表現であるはずです。だとすれば、そのモデルとモデルの相互作用とは、(もちろん極めてその範囲を限定されたものではあるけれども)一種のポリティクスである、とは考えられないでしょうか。したがって、オラクルたりえない人間が、その能力の限界まで徹底してギークでありつつ(つまり、人間には不能な決定木の書き下し分析にはよらずとも、そのゲーム構造のモデル分析により最適解を探索する態度を取りながら)、かつ、そこで創発するポリティクスを受容しよう、という態度を持ったプレイヤーとして存在することは、実際にあり得る(というかこのレベルでは、無自覚にではあっても実際に多くの人がそのようである)と思うのです。
さて、だんだんと、明らかになってきたかと思いますが。Lucas KBYSさんと私が異なる立場にあるだろうと思うのは、私が、根本的なところで、ゲームの外側の事象は、ゲームから完全に排除することは出来ず、むしろ、できる限り純粋な(形式的なシステムの内側のみで完結する)ゲームであろうとしても、それでもなお外側の事象が入り込んでくることにこそ、ゲームの楽しみの本質的な部分が(少なくともその一側面が)あるものと考えている点です。したがって、「(両方の意識がなければ)本当に喜びを見出すことはあり得ない」という私の主張については、この立場の違いが生んでいるところであると考えられますので、どうしてもフォロー出来ませんでした。自覚的ではないかもしれないけれども、徹底してギークであろうとしている人でもやはり、どこかでポリティクスを楽しめているのではないか、と私は思うのですね。この立場について、多分、本記事の議論だけでは、Lucas KBYSさんは納得されないと思います。それは、私の立場が端的に間違っているからかもしれませんし、もしくは、Lucas KBYSさんを納得させられるだけ私の思索も私の言葉も洗練されていないからかもしれません。納得させられない主張は、正しくない主張である、という考え方も当然あるかとは思いますが、どうか今の時点では、「君はこう考えるのね。自分は違うけれど。」と、寛容な目で見ていただきたく存じます。この先私が上記の立場を改めることがあれば、その際には、はっきりとこのブログ等の場を使ってその結論に至った議論を語らせて頂きたいと思いますし、また逆に、今の私の立場についてさらに確信を得、新たな視点と説得力のある言葉でそれを説明出来るようになったならば、改めてその議論を語らせていただくつもりです。もちろん、ご質問はいつでも大歓迎ですのでどんどんツイートでもコメントでも投げていただければ私としても嬉しく思いますが、まだ、どちらの立場が正しいか、という客観的な判断にまで到達できる状況ではないと私は思っています。ですから、何かまた新しい論拠が出てくるまで、お互いにお互いの立場を大事にして思索を深め、その先でまた議論出来ればなあ、と。一方的な主張で終わって申し訳ないですが…。はい。
最後に。
「モデル」という概念の呈示や、ゲームの複雑さがキングメイカー問題を終盤に追い込むこと、そしてまた、プレイヤーによる認識の多様性への気付きに、喜びや楽しみが見出されることなど、とても興味深くLucas KBYSさんの議論を拝見させていただきました。これからも楽しみにしております。
それでは以上、乱文な上に長文で失礼致しました。
追記:
私が上記記事で「ゲームの内側/外側」という言葉で語っているのは、「魔法円の内側/外側」ではなく、「ゲームの形式的システムの内側/外側」のことでした。また誤解させそうになってしまってましたら、ごめんなさい。